うららかや昔てふ松の千歳てふ
この句は、国の天然記念物与力松をたたえて、根東洋城さんが作られた「与力松調詠」二十句のうちの第一句です。「春の大へんうららかな中に、松が雄壮な姿でそびえ立っている。この松の年齢は干年を経ているということはまた、まことにうららかなことである」と歌ったものです。この句を刻んだ句碑が、与力松の下に昭和24年4月29日天皇誕生日の吉日に建てられました。

与力松は、松山市平井町小野小学校の校庭にそびえ立っていました。しかし、マツクイムシによって枯れてしまいました。ありし日の与力松は、写真のように立派でたいへん美しいものでした。高さ35メートル、木のまわり6メートル、樹齢干年といわれる大きな黒松でした。国の天然記念物に、昭和22年2月23日になりました。地上7メートルから二つの大きな幹に分かれ、たくさんの枝をつけた美しい松でした。

「与力松」は、昔この小野小学校の地名が与力と呼ばれていたことや、歴史上の与力武士に関係があることから名づけられたのです。与力というのは、時代劇に出てくる同心と一緒に悪人をつかまえる人と思うかもしれませんが、それは江戸時代のことです。鎌倉時代の中ごろ『貞永式目』という本によれば、武家に従った武士のことで、馬に乗って戦う者は与力、歩く者は同心と呼ばれていたのです。





今から600年もの昔、後醍醐天皇を中心とした公家(朝庭)方と北条高時が執権となって政治の実権をにぎっていた鎌倉幕府方とに、日本が二つに分かれていた時のこと。全国の武士たちは、どちらにつくか考えていました。伊予の国(愛媛)の豪族たちは、朝庭方につきました。鎌倉幕府は、鎌倉から遠く離れた土地の政治や乱れをおさめるための役職として「探題」というのをおいていました。伊予の国の受け持ちは、長門探題の北条時直でした。時直は、伊予の国の土居通増・得能通綱らが反幕府の立場を取り、朝庭方についたので驚きました。そこで、兵をひきいて越智郡の石井浜にやって来ましたが、土居通増・祝安親の軍に迎え討ちされて逃げ帰ってしまいました。

元弘3年(1333年)今度は、土居通増の本拠地を攻めようと松前の浜へあがり、星の岡(松山市)の南、国道11号線と33号線にはさまれた丘)あたりで戦いました。その年の3月12日に、突然攻められた土居・得能連合軍は防戦しながら平井城までひきあげました。
土居・得能の二人の大将は、これではいかんとそのあたりの有名な大松の下で作戦をねり直しました。それから近くに住んでいた合田・熊・玉井・来住・久保田・原・久保・堀内などの与力を大松の下に集めて、気分をひきしめ反撃しました。与力たちの大きな力で、長門探題軍はさんざんに敗け、北条時直父子は山林に身を隠しながら逃げ帰ったそうです。

その頃はあたり一面松原つづきであったけれど、大変立派な大松の下に与力たちが集まったことから300才くらいだったこの大松を「与力松」と呼ぷようになったそうです。
   
 
与力松は藩政時代には、「御帳付の松」として、保護されました。安永7年(1778年)の苅屋村村方地坪諸定に与力畑の松は影伐定法の中から外すとされ、この松には指一本ふれることはできませんでした。

明治14年には、この樹の下に苅屋尋常小学校が創立され、明治22年小野尋常小学校を創立、現在の小野小学校になっています。大正8年、平井のかぶと松が枯れて、村民の間で松愛護の気持ちが強くなり、大松保存会が生まれました。そして、昭和22年12月文部省が天然記念物に指定し、名前をかえた与力松保護顕彰会によって句碑を建てたりして保護されてきました。

長い年月の間、台風などでいたみ、枝も半分以下になって何本かの鉄柱にささえられてがん張っていた与力松も、マツクイムシの被害にあって枯れてしまいました。消毒など行って手をつくしましたが、昭和56年12月13日に小学生をはじめ多くの人々の見守るなか、惜しまれながら切りたおされました。

与力松の下でたくさんの人が学び遊び、さまざまな思い出を作りました。小野小学校に学んだ人々の喜びも悲しみも、大松(与力松)はよく知っていました。与力松は何ち言わないけれど、何かを語り教えてくれました。小野の人々を力づけ、「大松のようになろう。大松を見ならおう。」という気持ちを起こさせ、小野の象徴として多くの人たちに愛され小学校の校訓や校歌の中にもうたわれております。また、大松(与力松)は小野に育ち生きる人たちの誇りでもあったのです。

現在、だれからも愛され、心のささえとなった与力松をしのんで「与力松顕彰記念碑」が、建てられています。それは、ありし日の与力松の幹をそのまま形どったものです。
こうして、今なお人々の心の中に深く与力松は生きつづけているのです。